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長崎原爆の日 原子爆弾の名前や爆心地からの投下範囲 生存者の実態

長崎原爆の日に至る経緯

1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。

広島に続く形で、2発目の核兵器の使用です。

これは、長崎県長崎市に落とされたものが、人類史上最後の核兵器使用だったことを示しています。

これ以降、約70年以上、戦争の実戦で核兵器が使用されなかったことは、ある意味、すごいことでしょう。

実は、当時の米軍は、早く日本が無条件降伏しなければ、合計で12発の原子爆弾を使用する予定でした。

その中に、東京も含まれていたくらいですから、被害ははかりしれませんでした。

話を戻しますが、長崎の原子爆弾によって、死者がおおよそ7万4千人ほどの被害になったらしいです。

当時の長崎市の人口が24万人ですから、だいたい3分の1の人が亡くなったことなります。

広島の原子爆弾と比較しても、人口が1日でいっきに減る被害に変わりありません。

核兵器を使った以上、1発でも、日本という国家自体、大ダメージを受けてしまいます。

こうした被害を受けて、8月9日を長崎原爆の日と定めました。

毎年、長崎原爆の日では、二度と核兵器が使用されないように、平和記念式典がとり行われています。

原子爆弾の名前と投下範囲

長崎に落とされた原子爆弾の名前は、通称、「ファットマン」といわれています。

名前から推測するに、ふくらんだ形状がイメージできますが、実際のところは良くわかりません。

この原子爆弾は、当初、北九州の福岡県小倉市に落とすはずでした。

かりにそうなっていれば、広島の原爆を上回る被害になっていたことでしょう。

しかし、悪天候で発射目標の街を確認することができず、燃料にも限界がありました。

これにより、次なる目標の長崎市へと原爆を投下することになったのです。

このファットマンの威力は、広島の原爆リトルボーイを上回るものでした。

これは、プルトニウム239を使った爆弾であるため、広島の約1.5倍の破壊力が達成されていたのです。

爆心地は、あとかたもなくなり、その範囲は、ただ荒野だけが続いたらしいです。

建物もふき飛ばされて、ひどい惨状のありさまでした。

人々は、あとかたもなく飛び散り、爆心地からある程度離れた範囲でも、ひどければ、全身に大火傷を負うなどの状態です。

生存者である被爆者の実態

原爆の爆心地から3キロメートル離れた距離で、爆弾が爆発した瞬間、光が発生し、隠れた机に割れたガラスが突き刺さるひどさだったらしいです。

その生存者が、爆心地からわずか数百メートルの距離に行くと、おびただしい死体ばかりがころがっていました。

被爆者は放射能の後遺症に苦しみます。

その影響で、当時、人体は悪化し、突然死する人もあらわれたらしいです。

広島や長崎に落ちた原子爆弾ピカドンという名称で全国に広がりました。

周囲には、ピカドンの毒はうつるということで、被爆者の方々を差別していたみたいです。

今では、当時の偏見が忘れられて、風化したように思えます。

ちょうど、現代でも、東日本大震災原子力発電所放射能漏れも、そこに住んでいる人間や野菜や肉などに、放射線の悪影響がないか懸念されました。

当時の被爆者も歳をとって、80代をむかえるまでになりました。

ところが、当時の記憶は、トラウマとして鮮明に覚えているようなのです。

また、ひどい情報では、広島と長崎の被爆者の人体実験の記録を、戦後、米国に渡していたのです。

核実験を初の実戦で用いたため、とても必要だったのでしょう。

降伏した敗戦国であるため、反抗するすべも、もはやありません。

結局、戦争回避をギリギリまで行いましたが、勝ち目のない戦争をして、全てを失う結果になりました。

資源のない大日本帝国が、石油の輸入を米国にストップされたのですから、どうしようもありません。