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青年トルコ革命をわかりやすく説明する!ケマルパシャの民主国家体制

青年トルコ革命


青年トルコ革命が行われたのは、日露戦争の影響です。

1904年に、日露戦争が勃発して、大日本帝国は、圧倒的な領土を誇る、ロシア帝国を破り、欧米列強国家を破りました。

このことは、前から、欧米列強におされぎみだった、オスマン帝国の人々に感動をもたらしました。

そして、自分達も、日本のように近代化された政治制度をとり、欧米列強に対抗しようと考え始めます。

そうしたオスマン帝国内の革命運動が、青年トルコ革命です。

当時、オスマン帝国は、世界から瀕死の病人として、弱体化していたのです。

かつての広大な領土は、近隣諸国によって、次々と奪われていきました。

このような帝国内の衰退に対して、青年トルコというグループが、時代遅れになったスルタンの制度を廃止して、国民による実情にそくした政治を実現しようとします。

そこで、1908年に、エンヴェルパシャらの指揮によって立ち上がり、廃止されたミハメド憲法を復活させました。

さらに、スルタンを退かせて、立憲政治を行いました。

つまり、イスラム教国の君主であるスルタンを無力化して、皇帝による独裁政治をやめたわけです。

やはり、優秀なプロの人材が政治運営を行った方が、国内は良く治まります。

以上、青年トルコ革命をわかりやすく説明しました。

青年トルコの運命

この青年トルコというグループは、革命を成功させたのは良かったのですが、戦争の敗戦によって、難しいかじとりを余儀なくされます。

要するに、ヨーロッパやアフリカの領土を、ほとんど失ってしまったのです。

これは、青年トルコ政権には、大ダメージでした。

ただし、領土が狭くなったので、キリスト教徒は減少し、国民の統合がしやすくなったのです。

このことで、トルコ人によるナショナリズムの高揚が起こります。

トルコの民族主義が強まっていくのです。

ただし、議会政治は、あまりうまくいかず、第一次世界大戦をむかえることになります。

この戦争で、オスマン帝国は、敗戦国になってしまうのです。

これによって、青年トルコは崩壊してしまい、上層部は国外逃亡を余儀なくされるのです。

ここで、オスマン帝国は、セーヴル条約で、大幅な領土を失い、滅亡することになります。

滅亡した原因が、国民議会によるスルタンの廃止です。

今度は、スルタン自体、なくしてしまおうと考えたわけです。

これによって、1922年に、スルタンが国外逃亡して、オスマン帝国がなくなりました。

この国民議会を招集したのが、ケマルパシャなのです。

ケマルパシャのトルコ共和国建国

実は、この間に、スルタン政府とケマル軍の内戦がありました。

結果は、ケマルパシャの勝利に終わります。

そして、1923年に、国民議会にて、トルコ共和国が建国されます。

このトルコ共和国では、イスラムの古い政治制度をなくしていくことを目指しました。

こうして、イスラム王朝のカリフ制度も廃止されます。

カリフとは、全てのイスラム教徒をまとめる国王や宗教的指導者のことです。

これで、トルコ共和国民主化は強まり、欧米式の文化を導入していきました。

イスラム教を国教として義務化する条文も削除されたのです。

トルコは、イスラム国家で、初めて、西洋化に成功した国なのです。

こういったケマルパシャの革命運動のことを、トルコ革命と呼びます。

良く、青年トルコ革命と混同されやすいので、注意してください。

具体的には、ローマ字を導入したり、女性の権利を認めた点です。

ケマルパシャは、トルコ人ナショナリズムを高めることに力を入れました。

ここで、トルコ共和国は、政教分離を実現し、国民主導で民主主義を行うことに成功したのです。

ケマルパシャは、道を失っていたトルコ人にとって、希望の光となりました。