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モンゴル帝国でも負けたことが多い事実!繁栄と滅亡を経験した王朝

モンゴル帝国の概要

13世紀は、モンゴルの世紀と呼ばれるように、精強だったモンゴル軍が領土を拡大しました。

このことで、中華帝国イスラム王朝、西洋諸国が侵略されてしまいました。

その勢いは、止めることが困難だったのです。

結果として、モンゴル帝国は、ユーラシア大陸のほとんどの領土を治める大帝国となりました。

ただし、モンゴル帝国のリーダーを決めるクリルタイは、次第に形骸化していき、かつてのような首長の権威性が失われていったのです。

こうして、モンゴル帝国の領土が維持できず、分裂・統合を繰り返すことになります。

そんな中、フビライ・ハンが建国したのが、元という国です。

この元では、華北漢人南宋漢人を徹底的に冷遇しました。

モンゴル人第一主義をとっており、モンゴル人が重要な役職を独占していました。

その下のヨーロッパ人や西アジア系諸民族である、色目人も、厚遇されていました。

フビライ・ハンは、同じモンゴル人の権力闘争を嫌ったため、色目人を重用したのです。

モンゴル帝国ができたことにより、シルクロードの交易は活発化し、物流が栄え、ある意味、グローバル化のような現象が発生しました。

そんな中、モンゴル帝国では、輝かしい繁栄が続くのでした。

モンゴル帝国が強い理由

モンゴル帝国が強い理由は、馬を使った機動力と兵站が良いからです。

まず、騎馬兵は、歩兵に比べて、圧倒的な強さを誇ります。

モンゴルの馬の集団に対抗するのは、限りなく困難です。

草原で、ずっと馬と過ごしているうちに、戦いも、自然とうまくなっていきます。

モンゴルの馬は、小柄でありながら持久力が高いです。

馬の皮から、軽い鎧を作ったり、骨から武器も作れます。

当然、馬は食用にもなり、兵糧の問題も解決します。

また、イスラム商人との交易が盛んで、商人からくる諸外国の情報も手に入れてきました。

モンゴル軍は、意外に情報戦に強いのです。

そうした精強なモンゴル軍は、破竹の勢いで、周辺諸国を滅ぼしてきました。

あの西ヨーロッパ諸国の侵攻を途中で止めたのは、クリルタイが開催されたからです。

結果、ヨーロッパは、東欧のキエフ公国以外、滅ぼされずにすみました。

ヨーロッパ軍とモンゴル軍が戦ったのが、1241年のワールシュタットの戦いです。

モンゴル軍は、略奪をしてきた横暴な軍です。

軍紀はありますが、女子供でも容赦しません。

そのため、非道な行為が行われることがありました。

捕虜を敵兵の前にだして、戦ったりしたのです。

そんな無敵なモンゴル軍でも、敗れた戦いがありました。

モンゴル帝国が負けた戦争

あの強いモンゴル帝国でも、負けた戦争があります。

まずは、現在のヴェトナム地方の遠征です。

ここでは、温暖な気候による風土病の流行や、山岳地帯やジャングルを利用したゲリラ戦法によって、モンゴル軍は苦しめられます。

当然、こんな狭い地域では、騎馬による戦闘を活かすことができません。

確かに、モンゴル軍は、騎馬以外にも歩兵や水軍もありました。

しかし、3度にわたって侵攻しても、食糧難が続き、撤退するしかなかったのです。

次は、日本や、海上交易の場所であるチャンパーへの遠征です。

こちらは、モンゴル軍は、水軍を使って侵攻したのですが、暴風雨で船が大破してしまいます。

当時の航海技術では、長い船旅に耐えられる船を建造困難だったのです。

そして、ジャワ島への遠征です。

こちらは、モンゴル帝国内の政争の道具に使われてしまい、撤退する憂き目にあっています。

それ以外にも、モンゴル軍は、南宋を最終的に滅亡させますが、その前の戦いでは、結構、苦戦しています。

このように、モンゴル帝国でも、意外に、負けた戦いが多いのです。

結局、モンゴル帝国は、カリスマ的リーダーがあらわれず、内紛やペストの流行などによって、滅びをむかえてしまいます。

戦いに勝利するよりも、大帝国を維持する方が、ずっと難しいのです。